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5つのパンと2匹の魚

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ポンポコ山キャンプ

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 今日は秋田キリスト教会のキャンプに家族で参加させて頂きました。場所は秋田県八峰町にあるポンポコ山公園。秋田市から高速道路を使用して90分ほど。能代市を越えて国道101号を北上すると、向かって左手に見えてきます。公園にはきのこの形をした建物があり、公園に着いたサムエルとマリアは「きのこの建物」へ駆け出して行きました。

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 きのこの建物の中に入り、階段を上ってゆくと、そこには地面まで30mほどある長いローラー型のすべり台がありました。私は内心「しまった」と思いましたが、サムエルが滑りたがっており、サムエルと一緒にローラー滑り台を体験。するとやはりお尻が痛くて「イタタタタ・・!」と絶句。大人が滑るものではありません。サムエルはよほど気に入ったらしく一人で幾度もローラー滑り台をすべって楽しんでいました。

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 マリアはアスレチック遊具に興味を持ち、綱に乗ってはこちらからあちらへとターザンのように渡って楽しんでおりました。それを見ていたサムエルも、「僕も」とばかり乗りたがりますが、一人では乗れず、私が手助けしてあげました。この遊具もサムエルは気に入ったようです。

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 6時から夕食はみんなでカレーを食べました。カレーはキャンプの定番。みんなで作ったカレーを、一緒に食べると味は格別です。おもしろいことに家庭ごとにカレーの味が違うように、教会ごとに、またキャンプごとにカレーの味も違います。今回私たち家族は、秋田キリスト教会のキャンプカレーの味を発見する楽しみにもあずかりました。味は最高でした!

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 7時からは讃美が始まり、讃美リーダーの佐藤祐明先生が新しい讃美をたくさん紹介してくださり、みんなで思いっきり神様に讃美を捧げました。「手を神様いあげて」という歌詞では、参加者みんなで両手を高く挙げて、神様に向かって讃美を捧げました。讃美を通して参加者の一人一人の心が神様に向けて整えられてゆくのを感じました。

 私のような者のメッセージにキャンプに参加した中高生や大人のみなさんが真剣に耳を傾け、罪を悔い改め、再献身の祈りへと導かれました。集会前からずっと秋田キリスト教会の信徒のみなさんがサムエルとマリアの遊び相手になってくださり、私たち夫婦は奉仕に集中することができました。教団・教派を超えて、主にある兄弟姉妹が交わり、主をほめたたえることは素晴らしいと感じました。ハレルヤ!
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by carbondalle1996 | 2016-07-29 23:03 | 日記 | Comments(0)

今週はハイナイト祈祷会

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 ルツ記は、単なる嫁姑の麗しいエピソードではなく、主の大いなる「奥義」の書。ルツ記を学ぶに当たっては、ルツを「異邦人の代表」、ボアズを「イスラエル人の代表」として見ていきます。ルツは自らの一族、国、慣習、そしてモアブの神を捨て、「あなたの民はわたしの民。あなたの神はわたしの神。」と告白し義母ナオミに従いイスラエルへ行きました。異邦人ルツは自分を捨てることで、イスラエル人ナオミを助け、ナオミの信仰を回復する火種となり、キリストに似た役割を果たしました。

 キリストについて、パウロはこう言います。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2:6-7)それをルツに当てはめれば、「ルツはモアブ人なのに、モアブ人としてのあり方を捨てられないとは考えず、自分を無にして、姑ナオミに仕える姿勢をとり、イスラエル人と同じようになりました」と言えます。

 ナオミは故郷の人々に自分をナオミ(楽しみ)と呼ばずにマラ(苦しみ)と呼んで下さいと言うほどに信仰の火が消えかけていました。しかしそのようなナオミをルツが助けることで、ボアズを通してナオミの相続地が回復し、孫も与えられ、ナオミの信仰も回復しました。それどころか異邦人ナオミがキリストの系図に入れられるという驚くべき祝福に預かったのです。

 苦しみの中にあったナオミを助けることで、ルツ自身が神様から祝福を受けることになったように、苦境にあるイスラエルを助けることで、私たち異邦人の教会も祝福を受けます。現在も、イスラエルは信仰が衰弱し、世俗化が進み、方向を見失い、世界中から誤解され、嫌われ、矢面に立っています。そんな時、神の民に石を投げるようなことは、もう繰り返してはなりません。

 「アブラハムの子孫を呪う者は呪われる」ことになります。教会は批判するためではなく、祝福するために存在しています。もう一度、アブラハム契約に戻りましょう。私たち教会は、神の国の祝福を広げるためにあります。イスラエルと一つになり、神の国の祝福が世界中に広がっていくことがゴールです。今週はハイナイト祈祷会です。イスラエルのために祈りましょう。

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by carbondalle1996 | 2016-07-24 20:59 | 日記 | Comments(0)

夏の伝道集会

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 今日は夏の特別伝道集会。全日本リバイバルミッションの平岡修治先生とティム・ケプラーさんを招いてGospel&Bible Message のひとときをもちました。ケプラーさんは生まれてすぐ母親に捨てられ、10代で育ての親を失い、自暴自棄となり麻薬におぼれ警察に捕まり収監される中、イエス・キリストに出会い変えられました。現在は歌を通して多くの傷ついた人々を癒すヴォーカリストとして活動しています。今日はケプラーさんの証しを交えて、「He is」「Just as I am」など6曲を讃美してくださいました。ケプラーさんの証しに集まった人々は涙し、その歌声に感動し、そして一緒に神様を讃美しました。

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 Gospel の次はBible Message のとき。平岡修治先生が聖書がおしえる神様の愛と赦し、そして救いをわかりやすく語ってくださいました。先生のユーモアに溢れたメッセージに聴衆は一緒に笑い、共に驚き、いつしか人々は聖書のストーリーに惹き込まれ、メッセンジャーと聴衆が一つとなっていました。メッセージの最後に、「今日、イエス様を心に迎え入れたい人はいませんか?」という招きに人々は手を挙げて、イエス・キリストを心に迎え入れました。主の御名をほめたたえます。
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by carbondalle1996 | 2016-07-18 18:49 | 日記 | Comments(0)

平岡先生を迎えて


 明日はいよいよ夏の伝道集会。夏に伝道集会を行うのは、実は初の出来事。講師の平岡修治先生は、私達夫婦が神学生時代にお世話になった恩師です。私はいつか秋田の伝道集会に平岡先生をお招きしたいと願っていましたが、なかなかできずにいました。ところが今回は私がお願いしたのではなく、向こうからお願いをされて集会を開くこととなりました。神様の摂理にただただ感謝しかありません。

 平岡修治先生と聞いて、「誰」と頭の中で「?」マークが浮かんだ方も多いと思います。私も以前はそうでした。1998年に日本武道館において10日間の東京リバイバルミッションが行われ、私は仕事を終えて電車に乗って通いました。その日の講師は平岡修治とあり、私は有賀喜一先生や滝元明先生でないことに内心ガッカリしました。わざわざ日本武道館まで来て、無名の講師のメッセージを聴くのかと心の期待度は下降線。ところがいざ平岡先生が熱くメッセージを語り始めると、私はメッセージに吸い込まれ、驚きと感動に包まれました。「この先生、有賀先生や滝元先生以上だ!」それが、私が平岡修治先生に初めて出会ったときの印象です。

 平岡先生はメッセージも素晴らしいのですが、料理の方もプロ級の腕前。先生の教会には食堂兼イタリアンレストランがあり、コックは平岡先生。コックが超多忙のため完全予約制。神学生時代に先生の作ってくださったスパゲッティの味は格別でした。残念ながら2014年3月末をもってレストランは閉じてしまったそうですが、イタリア料理について質問したらきっと良いアドバイスを頂けるでしょう。

 そのほかに平岡先生のプロ級の腕前は大工仕事。なんといっても自分で教会を建ててしまったという話。嘘か本当か本人に聴いてみましょう。また歌声もまさにプロ顔負けで、私が先生の讃美を初めて聴いたのは、神学校の授業中。ヨハネ福音書の授業中にいきなりギターを弾いたと思ったら、先生が歌い始めました。そのときの先生の歌声がすばらしかったのを覚えています。今はほとんど人前では歌わないそうですが、明日の伝道集会で先生の讃美を聴けたらとも願っています。

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 今日は平岡修治先生とティム・ケプラーさん、そして音響担当の岩井さんを迎えてお食事の時をもちました。秋田料理がアメリカ人のケプラーさんの舌に合うか不安でしたが、ほとんどすべての料理を食べてくださいました。ケプラーさんは楽しい方で、「これで明日のコンサートは大丈夫です」と言って、伊藤夫妻の料理をたいへんほめてくださいました。いよいよ明日は夏の伝道集会。神様の祭典です!主に期待します。
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by carbondalle1996 | 2016-07-17 19:52 | 日記 | Comments(0)

秋田朝祷会

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信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11章1節)

 今朝は秋田キリスト教会にて7月の朝祷会が行われました。メッセージは下田先生がヘブル人への手紙11章より「信仰によって」と題してメッセージを取り次いでくださいました。聖書のみことばに聴き従って歩むことの大切さ。聖書のみことばを信じて確信することの大切さを改めて学びました。

「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル4章7節)

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by carbondalle1996 | 2016-07-14 09:07 | 日記 | Comments(0)

主が共におられる

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 私たちは苦しいこと、悲しいこと、辛いことが起こると、「いつまで神様は沈黙されているのですか」ともうキリスト教を捨ててしまたくなります。しかし、神様は沈黙しているからと言って、私たちから目をそらしているのではありません。その沈黙を通して神様の御心とそのご計画を探してほしい。私たちが苦しんでいるならば、主もまた私たちと共に苦しんでおられるのです。

イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。(ルカ10:51-52)
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by carbondalle1996 | 2016-07-08 04:02 | 日記 | Comments(0)

沈黙

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 遠藤周作の「沈黙」という小説があります。この小説の中で主人公の宣教師が拷問に遭い、殉教を決意します。そのとき遠くから聞こえるいびきの声を止めてくれと叫びます。しかしそれはいびきではなく、拷問されている信者の苦しみの声であり、彼らはキリスト教を捨てることを誓ったが、主人公の宣教師がキリスト教を捨てるまでは拷問が続くと教えられ、主人公は愕然とします。主人公の宣教師は、殉教の死を選ぶか、キリスト教を捨てて信者たちの命を助けるのかと苦悩します。

 そしてついに主人公のロドリゴはキリストを捨てて、踏み絵を踏む決意をします。ロドリゴが踏み絵を踏んだとき、激しい痛みを感じました。そのとき踏絵のなかのイエスが「踏むがよい。お前のその足の痛みを、私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから。私は沈黙していたのではない。おまえたちと共に苦しんでいたのだ」と語りかける。
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by carbondalle1996 | 2016-07-07 03:57 | 日記 | Comments(0)

沈黙の神

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イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。(マタイ20:34)

 バルテマイはきっと自分の人生をなげいたでしょう。どうして俺は生まれながら目が見えないんだ。なぜ神はこんな人生を俺に与えたんだ。恐らく考えても、考えても解決できない疑問が次から次へと魂の奥底から湧いてきたことでしょう。そして、叫んでも、叫んでも沈黙される神に彼はどうすればよいのかわからなかったことでしょう。聖書には神の沈黙を経験しない人はいません。アブラハムはイサクが与えられるまで30年待ちました。ヨセフは奴隷として売られました。ハンナもヨブも神の沈黙の前に葛藤をおぼえました。

 では、なぜ神は沈黙されるのでしょうか?それは人に探求させるためではないかと思います。初めから答えが分かっていては、答えの真髄にまで到達することはできません。「神の沈黙」の中で、もだえ苦しみながら、時間を掛けて探し求めることによって、神様が沈黙した意味を理解できるようになるのだと私は思います。神は最初から答えを与えずに、人が自分で答えを探すように放置されることがあります。そして、人が体験を通して、神の啓示を理解できる段階に来たそのタイミングに、神は答えを下さるのです。
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by carbondalle1996 | 2016-07-06 03:37 | 日記 | Comments(0)

あなたの信仰があなたを救った

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 マルコ福音書には、このときのイエス様の言葉が載っています。「行け、あなたの信仰があなたを救った。」あなたの信仰が目を癒したとは言いませんでした。あなたの信仰。イエスを救い主と告白した信仰。その信仰があなたを滅びから命へと救ったのだとイエス様はおっしゃったのです。そしてバルテマイに対して「行け」と命じました。何処へ行けというのでしょうか。目が見えるようになったバルテマイはイエスに従って行ったとあります。霊の目が開かれたならば、誰でもこのお方について行きます。
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by carbondalle1996 | 2016-07-05 20:36 | 日記 | Comments(0)

二人の弟子と二人の盲人

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イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。(マタイ20:34)

 ヤコブとヨハネがイエス様に右と左の座を求めたとき、イエス様は二人に対して「あなたがたは自分が何を求めているのかわかっていない」と言いました。目が見えていてもヤコブとヨハネの二人の霊の目は盲目だったのです。ところがどうでしょう。この盲人の二人は目が見えませんでしたが、霊の目は開かれていました。だから力一杯叫んだのです。「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんでください」と言ったのです。

 マタイがヤコブとヨハネの出来事の後にこの二人の盲人の出来事を入れたのは、意図があったからだと思います。マルコ福音書にもルカ福音書にも盲人はバルテマイ一人しか書かれておりません。マタイだけが二人の盲人だと記しました。目が見える者が見えず、目の見えない者が見える世界。マタイはこの2つの記事を通して、私たちに霊の目が開かれることの大切さをおしえているのだと思います。
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by carbondalle1996 | 2016-07-04 20:32 | 日記 | Comments(0)