”主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。”(詩篇23:1)
この詩篇23篇でダビデは「主はわたしの牧者」と詠っています。新改訳聖書では、「主はわたしの羊飼い」と訳されています。ダビデが「主はわたしの羊飼い」と言うとき、それは私たちが同じ言葉を発する以上に深い意味が込められています。なぜならば、ダビデ自身がイスラエルの王となる以前に羊飼いとしてその職業にあったからです。私たちは21世紀に生きる者であり、日本という農耕民族の歴史がありますから、羊飼いという職業が実際どのような職業であるのかを知りません。
私は鉄工所の息子として生まれて育ちましたから、鉄工業のいろはならばわかるつもりです。ものごころついた頃には、ペンキ塗りをしており、現場に連れて行かれて作業を手伝っておりました。鉄骨を切断し、溶接して加工するという作業をしておりました。また販売を通して鉄工業者仲間との関わりももちました。ですから私が鉄の加工について語るならば、みなさんが語る以上に説得力があると思います。
同じようにダビデはものごころついた頃から羊飼いをしておりました。羊飼いの第一の仕事は、羊の群れを猛獣から守ることです。なぜならば羊は猛獣から身を守るための手段をもっていません。象のように大きな体もなく、サイのような頑丈な体もなく、鹿のような立派な角もなく、馬のような速い足もありません。ですから猛獣に襲われたら逃げるしかありませんが、逃げるといっても遅い足です。ですから羊が逃げてもすぐに猛獣に捕まって食べられてしまいます。そのため羊は全面的に羊飼いに頼るしかありません。羊飼いの声を聞いて、羊飼いに従い、羊飼いに自分自身を守ってもらうしかありません。
このように羊飼いは猛獣から羊を守るという大きな使命があります。少年ダビデがゴリアテと戦うことをサウル王に進言したときにこう言いました。「獅子やクマが群れの羊を襲ったとき、私は猛獣の後を追って石で猛獣を撃ち倒し、その口から羊を取り返しました」と。今だったらライフルでしょうが、今から3千年ほど昔です。ダビデが持っていたのは、小さな石と石投器と呼ばれた紐でした。石投げ器でライオンやクマに立ち向かうのですから、ダビデがいかに勇敢な羊飼いであったかがわかります。私などはライフルを持つ手が震えてしまうと思います。イエス様は言いました。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と。ダビデは羊のために命を捨てて猛獣に向かって行き、その口から羊を取り返しました。それが良い羊飼いなのです。
ダビデの「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」という告白には、神様がダビデという羊の羊飼いであるから、わたしの人生には乏しいことはなく、むしろ祝福に充たされていると告白しているのです。あなたの人生はいかがでしょうか。あなたの人生を導いてくださる方はおられますか?主があなたの羊飼いです。このお方に聴き従うならば、必ずあなたの人生は祝福で充たされます。