人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

5つのパンと2匹の魚

fivebread.exblog.jp

自分の知識ではなく

自分の知識ではなく_f0229700_8231413.jpg



”たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。”(詩篇23:4)

 羊は自分の行きたい方向にしか動きません。羊飼いは羊にとって最も良い道を知っています。羊が強情に自分の行きたい方向に行こうとするとき、羊飼いはムチで羊の横腹を叩き、羊を群れに戻します。杖も同じように群れから迷い出る羊を引き戻す道具として使われます。時に私たちは道に迷い、自分の経験や知識に頼り間違った道に進んでしまうことがあります。そのような時に、神様はムチで私たちの横腹を叩くように問題を起し、杖で正しい道へ引き戻すように私たちの行く手を変えてくださいます。

 今月の朝祷会で秋田教会のN先生が献堂したときの証をしてくださいました。N先生は安くて、広い土地で、海が見えるところと祈ったところ良い土地が不動産屋さんから紹介されたそうです。祈った結果、これが神様からの祈りの応答だと思ってその土地を購入しようとした所、近所から苦情が来て教会が購入することができなくなってしまったそうです。どういうことだろうかと先生は信徒のみなさんと再び祈り始めたとき、今度は不動産屋さんではなく、信徒さんが自分の家の近所で安くて広い土地が売りに出ていると、おしえてくださったそうです。それが現在建っている場所だそうです。

 神様が導かれた地に教会を建てることができましたが、今度は銀行に借金を返すことができなくなったそうです。普段、N先生は「神様によりたのみなさい」とメッセージしているのに、借金を返せなくなると先生は神様に頼らずに親類にお金を貸してほしいとお願いしたそうです。しかし誰も貸してくれません。もう今月は銀行にお金を返せずに教会は指し押さえられると思ったとき、一人の婦人が教会に来られたそうです。その婦人は祈っていると神様からN先生にお金を貸してあげなさいと言われたと言って、ご主人が亡くなったその保険金の一部を先生に貸してくださったそうです。こうして無事に銀行にお金を返すことができ、またこの婦人にも後日お金を返すことができたそうです。N先生はこの経験を通して益々、人に頼るのではなく、自分の知識に頼るのでもなく、神様だけに頼ることが最善の道だと教えられたそうです。

 主はわたしの羊飼いであり、あなたの羊飼いでもあります。この羊飼いに全てを信頼し、ゆだね、歩む人生は祝福に満ち溢れています。あなたもこのお方に信頼して今年も歩みましょう。
# by carbondalle1996 | 2014-01-02 08:30 | 日記 | Comments(0)

正しい道へ導かれる

正しい道へ導かれる_f0229700_8171333.jpg



”主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。”(詩篇23:3)

 ダビデの人生は決して順風満帆ではありませんでした。仕えていたサウル王に何度も命を狙われ、荒野をさ迷ったこともありました。また晩年には息子からも命を狙われて王宮から逃れるという事件がありました。ダビデの魂は死ぬほどでありました。しかし神様は、その度にダビデの魂に力を与え、生き返らせ、正しい道へと導かれました。羊飼いが羊の群れを猛獣から守り安全な正しい道を歩かせ、緑の牧場に導くことは大切なことです。ダビデの人生にとっても、まさに神様はダビデの魂を生き返らせ、正しい道へと導かれる羊飼いであったのでしょう。

 私たちの人生において問題は起こります。多くの場合、私たちは問題に目を向け過ぎて、問題そのものに捉われてしまいます。するとその問題は私たちに解決不可能と思わせ、次第に絶望へと引き釣り降ろしてゆきます。それではダビデはどうだったでしょうか。ダビデがサウル王に追われてペリシテ人に身を置いていたとき、アマレク人が陣営を襲い自分たちの妻や子供たちが奪われてしまいました。そのときダビデはついに泣く力もなくなったとあります。そのときダビデと共にいた部下たちは、これはダビデのせいだといってダビデを石で撃ち殺そうとしました。絶体絶命のピンチです。そのときダビデは神に祈り、主によって自分を力づけたとあります。まさに主によってダビデの魂は生き返ったのです。

 問題の無い人生はありません。問題は必ず起こります。問題に目を捕らわれて絶望しあきらめるのではなく、ダビデのように私たちの羊飼いなるイエス・キリストに目を移し、「大丈夫。なんとかなる。問題は解決する」と告白しましょう。言葉には未来を創り出す力があります。神様から力を与えられて、大胆に信仰の宣言をして進みましょう。必ず主が助けてくださいます。
# by carbondalle1996 | 2014-01-01 22:16 | 日記 | Comments(0)

憩いのみぎわへ

憩いのみぎわへ_f0229700_6172520.jpg


主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。(詩篇23:2)

 羊は目が弱く、前の羊に着いて行くという習性があります。また自分で牧草地や水のみ場を探して行くことができません。そのまま放っておくと、羊たちは自分で牧草地や水のみ場を探すことができずに飢えて死んでしまう動物です。

 また羊には帰巣本能(キソウホンノウ)がありませんので、何処かで迷ったとしても家に帰ることができません。例えば、犬やネコでしたら帰巣本能がありますから、隣町ではぐれても家に着くことができます。イザヤ書には「牛はその飼い主を、ロバはその飼い葉おけを知っている」とありますが、このように動物には帰巣本能がありますが、羊にはこの大切な本能が無いのです。ですからイエス様は言いました。良い羊飼いは囲いの中にいる99匹の羊を置いて、迷い出た一匹の羊を探して歩き、見つけるまで探し続けます。それは羊が迷ったら自分で家に帰ることができないからです。

 ダビデはこの詩篇23篇で自分もまたこのような弱く愚かな羊と同じであると告白しています。群れから迷い出たならば、戻ることができない愚かな迷える羊。しかし、そのような愚かな羊にもすばらしい羊飼いがおられる。主という最高の羊飼いは、私が迷い出たならば、何処までも探し出して見つけて、そして連れ戻してくださるお方。ゆえに私はこの羊飼いにまったき信頼を置いて歩むことができるのだと。あなたは誰に信頼を置いていますか。あなたの羊飼いである主に信頼して歩んでみてはいかがですか。主はあなたを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。
# by carbondalle1996 | 2013-12-31 06:16 | 日記 | Comments(0)

主はわたしの羊飼い

主はわたしの羊飼い_f0229700_5443953.jpg



”主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。”(詩篇23:1)

 この詩篇23篇でダビデは「主はわたしの牧者」と詠っています。新改訳聖書では、「主はわたしの羊飼い」と訳されています。ダビデが「主はわたしの羊飼い」と言うとき、それは私たちが同じ言葉を発する以上に深い意味が込められています。なぜならば、ダビデ自身がイスラエルの王となる以前に羊飼いとしてその職業にあったからです。私たちは21世紀に生きる者であり、日本という農耕民族の歴史がありますから、羊飼いという職業が実際どのような職業であるのかを知りません。

 私は鉄工所の息子として生まれて育ちましたから、鉄工業のいろはならばわかるつもりです。ものごころついた頃には、ペンキ塗りをしており、現場に連れて行かれて作業を手伝っておりました。鉄骨を切断し、溶接して加工するという作業をしておりました。また販売を通して鉄工業者仲間との関わりももちました。ですから私が鉄の加工について語るならば、みなさんが語る以上に説得力があると思います。

 同じようにダビデはものごころついた頃から羊飼いをしておりました。羊飼いの第一の仕事は、羊の群れを猛獣から守ることです。なぜならば羊は猛獣から身を守るための手段をもっていません。象のように大きな体もなく、サイのような頑丈な体もなく、鹿のような立派な角もなく、馬のような速い足もありません。ですから猛獣に襲われたら逃げるしかありませんが、逃げるといっても遅い足です。ですから羊が逃げてもすぐに猛獣に捕まって食べられてしまいます。そのため羊は全面的に羊飼いに頼るしかありません。羊飼いの声を聞いて、羊飼いに従い、羊飼いに自分自身を守ってもらうしかありません。

 このように羊飼いは猛獣から羊を守るという大きな使命があります。少年ダビデがゴリアテと戦うことをサウル王に進言したときにこう言いました。「獅子やクマが群れの羊を襲ったとき、私は猛獣の後を追って石で猛獣を撃ち倒し、その口から羊を取り返しました」と。今だったらライフルでしょうが、今から3千年ほど昔です。ダビデが持っていたのは、小さな石と石投器と呼ばれた紐でした。石投げ器でライオンやクマに立ち向かうのですから、ダビデがいかに勇敢な羊飼いであったかがわかります。私などはライフルを持つ手が震えてしまうと思います。イエス様は言いました。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と。ダビデは羊のために命を捨てて猛獣に向かって行き、その口から羊を取り返しました。それが良い羊飼いなのです。

 ダビデの「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」という告白には、神様がダビデという羊の羊飼いであるから、わたしの人生には乏しいことはなく、むしろ祝福に充たされていると告白しているのです。あなたの人生はいかがでしょうか。あなたの人生を導いてくださる方はおられますか?主があなたの羊飼いです。このお方に聴き従うならば、必ずあなたの人生は祝福で充たされます。
# by carbondalle1996 | 2013-12-30 05:57 | 日記 | Comments(0)

キリスト者として

キリスト者として_f0229700_1429568.jpg


 今年もいろいろな事件がありましたが、安部首相の靖国神社参拝は私たち国民を驚かせました。キリスト者としてこの問題をどう考えたらよいだろうかと正直悩みました。もし彼がクリスチャンであったならば、真の神様を知っていたならば、「英霊に手を合わせなければならない」といった束縛から解放されたのではないでしょうか。 そのように考えていたときに、自分が実は上から目線であることに気づきました。

 安部首相は第1次安部内閣時代に靖国神社に参拝できなかったことを記者に聞かれ、「痛恨の極み」と心の内を吐露しました。私たちキリスト者には、参拝しないことがどうして「痛恨の極み」なのか理解に苦しむところです。しかし、「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」というイエス様のみ言葉に従うならば、その人が「痛恨の極み」であったという心の痛みを、自分の痛みとして理解しなければならないのだと思います。間違っているから批判するのではなく、理解できないから理解しないのではなく、その人の心の痛みを自分自身の痛みとして受け止め、理解し、涙したときに初めて、私たちキリスト者のメッセージが相手に届くのではないでしょうか。日本国のリーダーのために祈らなければなりません。どうぞお祈りください。

 今年も最後となりましたが、今年頂いた神様の恵みを1つ1つ数えて、祝福多き1年であったことを神様に感謝いたしましょう。S兄の恵みの証をご紹介します。
 
「自分が『守られている』、『支えられている』、『助けられている』、『導かれている』、『救われている』とハッと気づかされ、心の中で『主が共におられる』と実感できたとき喜びに変わります。それは自分の望みであった事が起こされたときだけでなく、それが自分の望みでなかった事が起こされたときでさえも、主はわたしの心を喜びに変えてくださいます。主はわたしに教え諭します、『上を見上げなさい、喜びはわたしの御手の中にあるのだ』と。」

 来年も神様の祝福が豊かに注がれますようにお祈り致します。           栄光在主
# by carbondalle1996 | 2013-12-29 10:28 | 日記 | Comments(0)