このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。(ローマ5章12節)
一人の人とはアダムです。神様が食べてはいけないと言われた善悪の知識の実を、アダムが食べてしまったゆえに罪がこの世に入りました。その結果、死も入りました。聖書は「こうして全ての人が罪を犯したので」とあります。ここで書かれている「罪を犯した」という言葉は1回だけ犯したという言葉です。1回とはアダムが犯した1回です。つまり聖書は、アダムが犯した1回の罪はあなたが犯した1回だと書いています。当然、私たちはアダムなど知りません。アダムと私たちは全然関係ありません。しかし、聖書はアダムから全ての人類が生まれた以上、アダムの中に私たち一人一人が入っていると考えます。
ロシア人形をご存知でしょうか。人形の中に少し小さい同じ形をした人形が入っており、だんだんと人形が小さくなるという人形です。つまりあれと同じです。アダムが罪を犯したときに私たちは生まれていませんでしたが、アダムの子孫である以上アダムの中にいて、私たちも罪を犯したと聖書は言います。
よく教会は人を勝手に罪人扱いするから嫌いだという声を聴きます。その通り、聖書は全ての人は罪人だと書いてあります。この誤解は罪の定義の違いから起こります。もし罪という定義が、「警察に捕まって牢屋に入れられること」だとしたら、ここにいるみなさんは罪人ではありません。しかし、聖書が定義する罪はもっと厳しいと考えてください。イエス様はあるとき、「人をバカ者とか能無しと呼んだ者は地獄へ投げ込まれる罪だ」と言いました。つまり人を傷つける言葉を言った人は罪人だということです。そうなると誰も罪人ではないと言えなくなります。
例えば、人のお金を盗むことと人の悪口を言うことと、どちらがより重い罪かと聞かれたらみなさんはどちらだと答えますか。たぶん人のお金を盗むことの方がはるかに大きな罪だと言うと思います。しかしちょっと考えてみてください。新聞やニュースで私はお金を盗まれて自殺したという人はあまり聞きません。その一方で悪口を友人や知人に言われて自殺したという人はたくさんいます。つまり被害者の立場に立つならば、悪口を言われる方が大きな罪なのです。そのように考えると、私たちは本当に人殺しに値するような罪を犯して生きてきたと言えます。ただ、言われた相手が自殺をしなかっただけかもしれません。ですから私たちもアダムと同罪であり、全ての人々はみな罪人なのです。
このような罪人を救うためにイエス・キリストはこの地上に来られました。救い主イエス・キリストを私たちの心に迎え入れ、永遠のいのちに預かる者となりましょう。