カトリック教会では信徒のみなさんが座る席を身廊と呼びます。これは英語でnaveと言います。教会のなかでしか使わない言葉です。このnaveという言葉は舟という意味です。なぜ教会の会衆席が舟と呼ばれたのでしょうか。そこには教会に来て席に座るということは、イエス・キリストの舟に乗りこむことだという意味があるからです。昔からカトリック教会ではそのように考えました。教会に来て礼拝することは、つまりイエス様と共に船旅をすること。あなたの人生が舟に乗った航海だとしたら、あなたの舟には誰が乗っていますか。
実は、弟子たちが本当に直面していた問題は、目に見える波や風ではありませんでした。彼らの最大の問題は、目に見える波や風に心を奪われて、イエス様が舟に乗っておられるという真実を忘れていたことです。イエス様が舟に乗っておられるから安心だと思うことができませんでした。ゆえにイエス様は小さな信仰だとおっしゃったのです。
もしかしたら、大きな信仰をもって弟子たちが「湖よ静まれ、この舟にはイエス・キリストが乗っているのだぞ」と命じたら、もしかしたら嵐は収まったかもしれません。私たちの人生でも同じです。問題が問題なのではなく、私たちがイエス様から目を離していることが問題なのです。問題が起こったら、イエス様に目を注ぎましょう。私たちの舟にはイエス様が乗っておられます。ですから決して沈没しません。向こう岸へ必ず渡ることができます。
Amazing Graceという賛美の詩を書いたJohn Newtonは、奴隷船の船乗りでした。ニュートンは、アフリカでの貿易を終え、故郷に帰る途中に大きな嵐に遭いました。船が難破しそうな中、いつのまにか「主よ、あわれんでください」と祈りました。差し迫る死を前に、みことばを思い浮かべ、自分自身の魂の最後を思い、苦しみました。そして、過去の悪い行いから来る罪責感のために、神は自分を赦してくれないだろうと絶望しました。しかし、驚いたことに、ニュートンの祈りは答えられ、嵐は静まりました。
このことを契機に、無法者の世界から身を引くようになり、神学校に行って、牧師となりました。ジョン・ニュートンは、年を重ねるごとに記憶力が衰えていきましたが、口ぐせのように言いました。「ほかのことはみな忘れても、私が罪人だったことと、罪から救われたことの2つは決して忘れません。」
私たちの人生も、何度も大きな嵐を経験します。イエス様を信じて生きているのに、何故こんな問題が起こるのかと思うようなことさえあるでしょう。しかし、忘れないようにしましょう。イエス様があなたの舟に乗ってくださっていることを。心が揺れることもあるでしょう。不安になることもある。しかし、あなたの舟は沈みません。イエス様が乗っているからです。そこに私たちの唯一の希望があります。イエス様は立ち上がり、叱り付けてくださるでしょう。「黙れ。鎮まれ」と。私たちを取り巻く状況の荒波を鎮めて下さる王の王、主の主が共にいてくださる。私たちの内面の荒波も鎮めるイエス様が私たちの中におられるのです。