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5つのパンと2匹の魚

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わたしは与えた

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 神様はアブラハムと契約を結びます。アブラハムが深い眠りに落ちたとき、「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」が「切り裂かれたものの間を通り過ぎた」とあります。煙の立つかまどと、燃えているたいまつとは、神様の臨在の象徴です。当時は契約を結ぶ者同士が「裂かれた動物の間を通り過ぎる」ことによって契約を結ぶというが慣習でした。「切り裂かれたものの間を通り過ぎる」という行為も、もし約束を破ったならば、このように身を裂かれても致し方ありません、というほどの堅い約束を示しています。

 ところがこの契約ですが、切り裂かれたものの間を通り過ぎたのは神様だけでした。アブラハムはこのとき深い眠りが襲って眠っていたのです。契約の遵守を誓ったのは神様だけです。ですから、この契約は双方的なものではなく、神様の一方的な契約ということがいえます。アブラハムの義務については一切語られていないのです。

その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。(創世記15章18節)

 「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。」と訳されています。しかしこの「与える」と訳されたことばは原文では「わたしは与えた」という完了形の動詞が使われています。まだ実現していなくても、将来、必ず実現することは、ヘブル語では「完了形」で表わされるのです。

 あなたが主に願ったものは何でしょうか。それはまだ実現していませんか?アブラハムと神様の契約が実現したのは、アブラハムの子孫の世代でした。神様はそのように長い時間をもって約束を成就いたします。まさに信仰とは望んでいることがらを確信し、まだ得ぬものを既に得たと受け取ることなのです。あなたもすでに主に願ったものは得たと信仰を持って宣言しましょう。
by carbondalle1996 | 2014-10-16 15:13 | 日記 | Comments(0)
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