一人の伝道者が街角で路傍伝道をしていました。前を通る人々に向かって、「神様はおられます。神様はあなたを愛しています」と大声で語りかけていました。するとそのメッセージを聴いていた一人の男性が、突然この伝道者に向かってこう言いました。「俺は神様も悪魔も信じない。天国も地獄も信じないぞ!」伝道者は聞きました。「どうしてあなたは神様を信じないとおっしゃるのですか?」その男性はこう言いました。「なぜならそんなもの見えないじゃないか!」
すると二人の会話を聞いていた目の不自由な人が、この男性に質問をしました。「あなたは今、青い空が見えますか?美しい街並みが見えますか?緑の葉が生い茂っている木々が見えますか?私はご覧のように目が不自由で何も見えません。でも、もし私がそんなものは見えないからないんだと言ったら、あなたは何とおっしゃいますか?あなたはきっと私に対して、『おまえは見えないだけだ。可愛そうな人だ』ときっとおっしゃるでしょう。今あなたは神様を見えないからいないとおっしゃいましたが、その言葉をそのままあなたにお返しします。あなたは可哀そうな人です。」
そしてその人はその男性に優しくこう話しました。「どうぞ、見えないからいないと言わないでください。それはあなたがあるものが見えていないという可哀そうな状態なのです。」
日曜学校の授業で一人の少年がイエス様に手紙を書きました。「イエス様、イエス様のキャンパスには何色の絵の具があるのですか?」 少年は自然の美しさを観て、その風景を見たままに描こうと思ったのでしょう。しかしいざ画用紙に木々や葉の色を塗ろうと思っても、自分の絵の具箱には少年の目に映るような色がなかったのでしょう。そのような経験が、私たちも少なからずあると思います。
自然の美しさを観るとき、また季節の移り変わりを感じるとき、私たちはそこに神様がおられ、そして神様が働いておられることを感じます。私たちは神様によって創造され、神様によって生かされている者です。
“イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。“ (ヨハネ20章29節)