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5つのパンと2匹の魚

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矯風会の初代会頭

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矢島楫子(かじこ)さんは女子学院の初代院長であり、日本キリスト教婦人矯風会の初代会頭でもあった人です。彼女が1925年(大正14年)に92歳で天に召された時、甥である徳富蘇峰が追悼演説で、「あたかも渋柿が霜を経て渋みが抜け、甘みの実となるごとく、情緒細やかに思いやり深く、柔和にして愛に満ちたる人となりました」と評しました。

 その演説にあるように、幼少期の楫子さんはあまり笑顔を見せない勝気な少女で、周囲から「渋柿」と呼ばれていました。楫子さんは熊本県益城町で1男6女の末子として生まれ、度重なる女児の誕生は歓迎されませんでした。25歳で結婚しますが、夫は酒乱で、酔うと長刀を振り回すなどで家族への暴力を繰り返しました。楫子さんは10年耐えた結婚生活の末、極度の疲労と衰弱で半分盲目状態となり、離婚を決意し、3人の子供のうち上の二人の子供を置いて家を出ました。

 その後、彼女は兄を頼り上京し、生来の向学心から教育伝習所へ通い、訓導試験に合格し小学校教員となりますが、妻子ある男性と恋に落ち、子供をもうけてしまいます。不義の子を連れた楫子さんを嘲笑する人は多くいました。そのような時に熊本に残してきた長男が洗礼を受けてクリスチャンとなった事を知り、楫子さんにとってキリスト教は遠い異国の宗教ではなく、我が子の宗教となりました。そして楫子さん自身も宣教師との出逢いを通してイエスを信じて救われました。

 それからの楫子さんは女性教育、禁酒禁煙、公娼廃止などの矯風運動に全てを捧げ、多くの女性を救うようになりました。女学校の校主代理に就任したときには校則を作らず「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と、生徒たちを諭したそうです。楫子の活動は日本だけにとどまらず、3回の渡米で、軍縮会議に東洋の平和を祈る婦人たちの署名を集めて提出するまで行いました。彼女の半生は弱さと苦難の連続でしたが、その中で救い主に出逢い、後半生は神様に用いられる器として整えられ、神様の栄光を現しました。


by carbondalle1996 | 2018-10-14 22:23 | キリスト教集会 | Comments(0)
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