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5つのパンと2匹の魚

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真実と和解委員会

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マンデラ大統領は、南アフリカの新しい建国の第一歩として驚くべき政策を発表しました。それは「真実と和解委員会」です。そしてカトリック教会の司教で、ノーベル平和賞受賞者のデズモンド・ツツ主教を、「真実と和解委員会」の委員長に指名したのです。普通は、今まで抑圧してきた者たちに報復する。厳罰を加える。それがよく行われる勝者が敗者を扱う手法です。マンデラは、そんな『復讐劇』を何とか和らげたいとその方法を模索した結果、この政策を採用したのです

 その政府委員会のルールは簡単でした。白人警官や軍の仕官が自発的に、自分を告発する者に面と向かい、自らが犯した罪を告白するのです。それで、完全に罪を認めた者は、裁判にかけられることもなく、その犯罪で罰せられることもないというルールです。強硬論者たちは、このやり方に文句を言いました。しかし、マンデラ大統領は主張しました。「この国は、【正義】よりも【癒し】を必要としているのだ」と。それから2年半にわたって、南アフリカ人は、この「真実と和解委員会」の聴聞で明らかにされる残虐行為の真相を知らされていくのです。

 ある聴聞会に、バンデ・ブロイクという警官が出席しました。彼は、他の警官たちと一緒に起こした事件について詳しく告白しました。彼らは18歳の少年を銃で撃ち、その遺体を燃やしたのです。証拠を消すために、少年の遺体をバーベキューの肉のように炎の上で転がしたというのです。更に、その8年後、バンデ・ブロイクは、その少年の家に戻り、今度は少年の父親を捕まえました。バンデ・ブロイクは、少年の父親を材木の山に載せて、その上にガソリンをかけました。それに火を放つ瞬間を、何と、その妻に無理矢理に見せたのです!とんでもない暴挙ですね。

 真実と和解委員会には、そのバンデ・ブロイク警官と、長男と夫を失った老婦人が呼ばれていました。そして、その老婦人に発言の機会が与えられました。すると、法廷はシーンと静まり返りました。判事が夫人に尋ねました。『バンデ・ブロイク被告にどうしてもらいたいですか?』 すると、老婦人は、こう答えました。『私は、バンデ・ブロイクさんに、夫の体を焼いた場所へ行って灰を集めていただきたいです。そうすれば、夫をきちんと埋葬してやることが出来ますから。』

 バンデ・ブロイク警官は頭を垂れて、うなずきました。それから彼女は、こうつけ加えました。『私はバンデ・ブロイクさんに、家族全員を奪われました。でも、私にはまだ愛がたくさん残っています。彼には、月に2回、私の住んでいるゲットーに来て、私と一日を過ごしてもらいたいのです。そうすれば、私は、ブロイクさんの母親のようになれますから。そして、バンデ・ブロイクさんが神に赦されていること、そして私も彼を赦していることを知ってほしいのです。ブロイクさんを抱き締めていいでしょうか。そうすれば、私の赦しが本物だということがわかるでしょうから。』 

 この老婦人が法廷の証人台に向かって歩き始めると、誰かが『アメイジング・グレイス』を歌い始めました。愛は赦すこと。私たちの神様は私たちの罪を赦すために御子イエス・キリストをこの地上に遣わし、私たちの罪の身代わりに十字架に架けられました。誰でもイエス・キリストを罪からの救い主と信じるならば、罪赦され神の子とされるのです。あなたもイエス・キリストを救い主として信じませんか。神は愛なり。
# by carbondalle1996 | 2013-12-28 07:00 | 日記 | Comments(0)

もし私が今もそう思っているならば・・・

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 1990年に、27年ぶりに、71歳で釈放されたマンデラ氏は、記者会見で白人に向けたメッセージを発しました。『白人も同じ南アフリカ人。この国の発展に尽くしてきた白人層の功績を、私たちは高く評価している。』この発言によって、報復におびえる白人社会もマンデラ氏は信用できると思うようになりました。

 マンデラ氏が釈放された時、新聞記者が「ひどい27年間でしたね。あなたは仕返ししますか?」と聞きました。そのとき彼はこう答えました。「もし、私が今もそう思っているならば、私は今も監獄の中にいるのです。」

 私たちが誰かを赦さないでいるとき、私たちの心は憎しみや恨みという監獄の中に自分の心を閉じ込めているのです。その監獄から自分の心を開放する唯一の道は、赦せないあなたの隣り人を赦すことです。赦すことは相手のためではなく、自分の心を解放するためなのです。ネルソン・マンデラ氏は、その平和革命の推進者として、1993年、ノーベル平和賞を授けられました。

 イエス・キリストは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言いました。あなたの隣人とは決して親友や恋人ではありません。私たちがどんなことがあっても赦すことができない、憎くて、憎くて仕方が無い、そのような人です。イエス様はそのようなあなたの隣り人を愛しなさいと言いました。私たちが隣人を赦し、愛するとき天国の祝福は私たちのものとなるのです。あなたもこの祝福に預かる者となりますように。
# by carbondalle1996 | 2013-12-27 06:58 | 日記 | Comments(0)

不可能は可能に

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 南アフリカ共和国の元大統領、ネルソン・マンデラ氏が亡くなられました。その葬儀には世界中の国家元首が参列し、日本からは皇太子が参列しました。マンデラ氏は素晴らしいクリスチャン政治家でありました。南アフリカ共和国は、ごく最近までアパルトヘイトと言って、人種差別政策を採っていた国でした。少数の白人が、多数の黒人を徹底的に差別して、抑圧していた国です。

 その人種差別政策に反対して戦ったのが、黒人の弁護士、ネルソン・マンデラでした。そのために、彼は1962年に逮捕され、64年には国家反逆罪で終身刑を宣告され、27年間の監獄生活を送りました。その27年のうち、18年間をロベン島という島の独房で過ごしました。収監中、マンデラ氏は、しばしば石灰岩採掘場で労働を強制されました。マンデラ氏の目は、強烈な光と石灰岩の微粒子で弱り、一生回復することはありませんでした。

 マンデラ氏は当初、白人の政権を倒すためには、武装闘争も辞さない人でした。ところが、このロベン島の監獄で彼は変えられました。彼は聖書を読みました。そして監獄の中で白人の看守と交わるようになり、いつしか白人の看守との間に友情が生まれました。マンデラ氏は、この経験を通して黒人と白人は和解できる、共に手を携えて国を作り上げることができると確信しました。

 1994年、彼は、南アフリカ共和国大統領に選ばれたのです。マンデラ大統領は、その大統領就任式の演壇に、ある無名の人物を招きました。ある人物に、一緒に演壇に登ってほしいと頼んだのです。皆さん、その相手とは、何と刑務所の看守でした。しかも、白人です!刑務所の番人を大統領就任式に招待する大統領が今までいたでしょうか。しかし、マンデラ氏に、人種を超えて赦し合うことの大切さを確信させてくれたのは、刑務所の看守でした。彼こそは、大統領の恩人、親友であったのです。

 私たちはイエス・キリストを通して希望の光を見ます。決して不可能と思える現実であっても、キリストを通して見るならば、それは可能となり希望となり、夢となります。そして神様がくださった夢であるならば、それは実現します。ネルソン・マンデラ氏は神様の夢を実現した一人のクリスチャンでした。
# by carbondalle1996 | 2013-12-26 22:46 | 日記 | Comments(0)

愛は無条件

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御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。(ルカ2章15)

神様の愛は私たち人の愛とは全く異なります。私たちが普段経験した愛はすべて条件付きの愛です。親は子供を自分の子供だから愛します。ある親は良いことをしたら愛し、悪い事をしたら愛さないという親もいるかもしれません。あれだけ仲の良かった兄弟が、遺産相続によって仲たがいするというケースもあります。友情はどうでしょうか。相手が自分と同じ価値観をもっているから、相手が自分を裏切らないから友情が続く。夫婦や恋人もどうでしょうか。昨日まで愛していると言っていた夫婦が、相手が自分を裏切ったとして離婚してしまいます。すべてこれは条件付きの愛です。

 しかし神様の愛は無条件の愛です。私が何か優秀だから、何か人よりも勝っているから、神様は私を愛しているのではありません。その逆です。私は何も人より勝っていません。それどころか神様を何度も裏切って、神様を悲しませ、神様なんて知らないと何度神様に背を向けて離れたかもしれません。しかし、そのような私を神様はいつも赦し、変わらない愛で私を愛してくださる。それが神様の愛です。

 イエス様は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言いました。あなたの隣人とは決して親友や恋人ではありません。私たちがどんなことがあっても赦すことができない、憎くて、憎くて仕方が無い、そのような人です。イエス様はそのようなあなたの隣り人を愛しなさいと言いました。

 あなたの中でこの人は赦せないという人はいますか。アガペーの愛とは赦せない人を赦すことです。私たちがどれだけ親から愛され、夫や妻から愛され、兄弟や友人から愛されたとしても、その愛では赦す力は生まれません。赦すという言葉は、本来どんなことがあっても赦すことができない相手を赦すという意味です。しかし、私たちが神様から愛されていることを心に受け止めるとき、私たちの中で神様の愛は他者を赦す愛へと変わり、私たちは人を赦すことができるのです。これが神様の愛です。
# by carbondalle1996 | 2013-12-25 06:42 | 日記 | Comments(0)

なお一つ足りない愛

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あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(ルカ2章12~14節)

私は結婚式の司式をいたします。結婚式場には新郎・新婦とその家族、親戚、友人が二人の結婚の証人として参列します。私はいつも司式をしながらこう思います。結婚式は愛で満ち溢れている。新郎・新婦の両親、親戚、友人など、二人を愛し支えて来た人々がこの場にこんなに多く集まっている。ここは愛で満ちていると。
新郎・新婦のご両親を見て思います。親子の間に愛がある。バージンロードを緊張した顔で新婦と歩くお父さんの姿を見ると、花嫁がどれほどこのお父さんから愛されて育てられたのかと想像します。

 両親の隣りには新郎・新婦の兄弟姉妹が座ります。そこには兄として、姉として、弟、妹として兄弟愛を見ることができます。2列目3列目4列目は親族の席です。そこには新郎・新婦のおじさんやおばさんが座ります。きっと新郎新婦が生まれたときからずっと見守って来られたのだと思います。親族としての愛があります。

 5列目からは友人席となります。そこには新郎新婦の同級生や会社の同僚、先輩、上司などが座ります。この席に座る仲間達が結婚式を盛り上げてくださいます。司式中に大声をかけたり、笑わしたり、忙しい人々です。私は彼らを通して新郎新婦がどのような人であるかを想像します。そこには温かい友情があります。

 中にはヤクザではないかと思えるような恐い外見の方々もいます。新郎の上司かもしれません。そこには師弟愛を見ることができます。そして新郎新婦が司式の間中仲良く笑い合い、支え合っている姿を見て恋人同士の愛からこれから二人は夫婦という愛を育んでゆくのだと想像します。このように私たちの生きている世界は愛で満ちています。

 しかし、私たちは普段このように親子の愛、兄弟愛、友情、師弟愛、恋人同士の愛、夫婦の愛で溢れていても、尚ひとつ足りない愛があります。聖書はそれをアガペーの愛、神様の愛とおしえています。
# by carbondalle1996 | 2013-12-24 06:22 | 日記 | Comments(0)