人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

5つのパンと2匹の魚

fivebread.exblog.jp

リンカーンの言葉

リンカーンの言葉_f0229700_621689.jpg



 アメリカの南北戦争の最も激しかった頃、北軍の司令官アブラハム・リンカーンは、いつも祈りを捧げていました。ある日、リンカーンが祈って出てくると、参謀長が近づいてきました。「閣下、このような厳しい時、神が私たち北軍と共におられたならどれほど心強いでしょうか。」その言葉を聞いたリンカーンがこう語りました。「君、神がどうして北軍の神だけになりえようか。南軍の神でもあるのだ。問題は神が誰の味方につくかではなく、誰が神の側に立つかである。」

 私たちは神様が自分と共におられることを願いがちですが、自分が神様の側に立っているかを考えません。自分の思いや行動、言葉の1つ1つを顧みたときに、はたしてそれを見ておられる神様は自分をどう見ているでしょうか。喜んでいるでしょうか。神様に願うより先に、自分自身が神様の喜ばれる行動をしているだろうかと考えるべきではないでしょうか。自分は神様の側に、今、立っているだろうか。忙しい毎日の生活の中で、ちょっと立ち止まって考えてみる必要があると思います。
# by carbondalle1996 | 2013-10-18 06:21 | 日記 | Comments(0)

罪を赦す権威

罪を赦す権威_f0229700_4364673.jpg



「中風の人に、『あなたの罪は赦されました』と言うのと、『起きて、床をたたんで、歩いて行きなさい』と言うのと、どちらがやさしいですか。あなたがたは、口先だけで、『あなたの罪は赦されました』と言う方がやさしいと考えているでしょう。」(マルコ2:9)

 私たちは口先だけで、「あなたの罪は赦された」と言う方が易しいと考えます。それは、罪が赦されたかどうかの結果が見えないからです。ですから、「起きて、歩け」という結果がすぐに求められる方が難しいと考えるのです。しかし、罪を赦すという権威は、神様だけがもっているものです。決して易しいものではないのです。イエス様は、罪を赦すということが、病の癒しよりも重要であることをここで述べているのです。
 
 ここでイエス様は、「病の癒し」と「罪の赦し」という2つを比較しておりますが、これは当時のユダヤ人のラビたちが用いた論法の1つです。2つの比較をもって、自分の主張を正しいとするラビ的論法です。

 例えば、「ある人が、数学の微分積分ができるならば、この人は算数の足算と引き算もできる」というような論法です。この逆はありえませんね。足算と引き算ができたからといって、微分積分ができるとは限らないですね。難しいことができるならば、簡単なことは証明しなくてもできるとします。これが当時のラビたちが好んで用いた論法でした。

 つまり「イエスとはいったい誰なのか」という律法学者たちの疑問に答えるため、イエス様は律法学者たち自身が使うラビ的論法によって、御自身を証しされたのです。それは、律法学者たちがより難しいと考える「病の癒し」を証明することによって、より易しいと考えた「罪の赦し」を証明したのでした。このことによって、イエス様御自身が、地上で罪を赦す権威をもっていることを証明されたのです。地上で罪赦された私たちはなんと幸いな者でしょうか。ハレルヤ!
# by carbondalle1996 | 2013-10-17 04:36 | 日記 | Comments(0)

因果応報からの開放

因果応報からの開放_f0229700_5453137.jpg


 K牧師が関西のある教会に招かれて伝道集会のご奉仕をしたときのことです。土曜日の夜に伝道集会をし、翌日の主日礼拝にもK牧師が説教をいたしました。土曜日の夜、伝道集会が終わり質問の時間となりました。すると一人の女性が手を挙げて尋ねました。「先生、教会の中に因果応報ってありますか」。あまりに明るい声だったので、K牧師はその女性がクリスチャンだと思ったそうです。そして丁寧に、はっきりと「キリスト教では因果応報というものはありません。それが断固断ち切られたところで私たちは生かされています。」そう答えたそうです。後でその教会の牧師から、あの女性はクリスチャンではなく、その夜に初めて来た来訪者だと聞かされたそうです。

 そしてその女性は翌日の礼拝にも来られたそうです。礼拝が終わってK牧師が玄関で挨拶をしていると、昨夜のその女性がK牧師のところに来て「洗礼を受けます」と言ったそうです。先生は、「それは早すぎるでしょう。決心はいいけれども、牧師の指導を受けて、ゆっくり準備をしなさい」と言いました。「それにしてもなぜこんなに早く決心をなさったのですか」と尋ねましたら、「説教の間ぐっすり眠れたからです」とその女性は答えました。

 彼女の家は家族や友人がみなある新興宗教に入っているそうです。因果応報の教えを畳重ねるように説き続けるその集団の中にあって、彼女ひとりそれを受け入れないでいるそうです。そして家族の中で起こる不幸はみな、その女性が先祖の供養をしていないからだと攻め立てられている。しかし、彼女はかれらの考えを決して受け入れることができないのだというのです。そして、辛くて、辛くて、もう2年間もぐっすり眠っていなかったそうです。しかし、昨晩、K牧師から「因果応報はない」と聞いて、昨晩はぐっすり眠ることができ、今日もその続きで安心して眠ることができましたということでした。安心して眠れるから、キリスト教は信じても安心だと考えたのでしょう。

 K牧師は、因果応報という間違った教えを、どれほど多くの宗教家が食い物にして人々を苦しめているのだろうかと改めて考えたのだそうです。

弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。(ヨハネ9:2)
# by carbondalle1996 | 2013-10-16 05:45 | 日記 | Comments(0)

デンマークの奇跡

デンマークの奇跡_f0229700_6435693.jpg



 ヨーロッパにはたくさんの小国と呼ばれる小さな国がありますが、その1つにデンマークという国があります。面積は九州とほぼ同じくらいです。人口は540万人、これは東京都の半分ほどの人口です。まさに小さな国です。しかし、この小さな国がとても大きな経済力をもっています。食料自給率は300%で、エネルギー生産率は130%で余った30%を外国へ輸出しております。日本は世界第3位の経済力をもっていますが、国民一人当たりの経済力を表すGDPに直しますと、この小さな国デンマークよりも劣ります。そのような豊かな国デンマークも昔はとても貧しい国でした。

 1864年のドイツとの間で起こった戦争によって、最も肥沃であった南部の土地は奪われ、残されたのは荒地だけというものでした。農業をしようにも作物が生えないような痩せた土地でした。しかし、そのような絶望の中で一人のクリスチャンが立ち上がりました。彼の名をエンリコ・ダルガスと言います。彼は戦争に敗れ、荒廃した祖国を見て、神にある希望を見ました。

 「今やデンマークにとって最悪の日なった」と彼の同僚はいいました。「まことにそのとおりだ」とダルガスは答えました。「しかしながらわれらは外に失ったものを内において取り返すことができる。君と私との生存中にわれらはデンマークの荒野をバラの花咲くところとしよう」と答えました。彼は人々が剣をもって失ったものを鋤(すき)をもって取り返そうとしました。敵国に対して戦争を計画するのではなく、鋤(すき)と鍬(くわ)とをもって残った領土と闘い、これを田園と化して敵に奪われたものを補おうとしました。

 まず最初にダルガスは土地に溝を掘り、用水路を作りました。そこに水を流し、荒地の植物を抜き取り、じゃがいもや牧草を植えました。次にダルガスは荒地を緑に変えるべく植林事業を起しました。しかし、痩せたデンマークの土地に合った樹がなかなかみつかりません。もみの樹が良いということになり植えましたが、数年で枯れてしまいました。そこでアルプス産の小さなもみの木とノルウエー産の大きなもみの木を交互に植えたところ成功しました。

 しかし、今度はもみの木はある程度まで成長しますが、それ以上成長しないという問題にぶつかりました。そこである程度成長した小さなもみの木を抜くことによって、大きなもみの木は生長し、もみの木の森となりました。こうして荒廃したデンマークの土地が緑の土地へと変わりました。

 植林の効果は単に木材の収穫に止(とど)まりません。樹木のなき土地は熱しやすくして冷めやすくあります。ゆえにダルガスの植林以前においてはユトランドの夏は、昼は非常に暑くして、夜はときに霜を見ました。四六時中に熱帯の暑気と初冬の霜を見ることでありますれば、植物はたまったものでありません。その時にあたってユトランドの農夫が収穫成功の希望をもって種えた植物は馬鈴薯、黒麦、その他少数のものに過ぎませんでした。しかし植林成功後のかの地の農業は一変しました。夏期の降霜はまったく止みました。今や小麦なり、砂糖大根なり、北欧産の穀類または野菜にして、成熟せざるものなきにいたりました。デンマークは大樅(おおもみ)の林の繁茂のゆえをもって良き田園と化しました。木材を与えられし上に善き気候を与えられました、植ゆべきはまことに樹であります。

 しかし植林の善き感化はこれに止まりませんでした。樹木の繁茂は海岸より吹き送らるる砂塵の荒廃を止めました。北海沿岸特有の砂丘は海岸近くに喰い止められました。

 こうして食料自給率300%、エネルギー自給率130%、という奇跡の経済成長を遂げたのでした。それは一人のクリスチャンが聖書のみことばに立ち上がったことから起こりました。
# by carbondalle1996 | 2013-10-15 06:45 | 日記 | Comments(0)

歩幅に合わせて

歩幅に合わせて_f0229700_8244128.jpg



 「あきたにしました」。これは秋田デスティネーションキャンペーンのキャッチコピーです。デスティネーションとは(目的地・行き先)という意味で、JRグループと秋田県が連携して日本全国から誘客を図るという日本最大規模の観光キャンペーンです。期間は12月31日まで。秋田人のおもてなし度が試される時期でもあります。旅の目的地を秋田に決めてくださるのは秋田人として嬉しい限り。その上でぜひ人生の目的地も決めていただけたら、キリスト者としてはもっと嬉しいのですが。

 ある女優さんが「寒い時に手をポケットに入れてくれる男性の優しさに惹かれる」と発言。その場で二人の俳優さんが彼氏役を演じました。一人は彼女の手をポケットに入れて男らしく、「なんだ、冷たくないじゃねえか」と言って彼女と歩いてゆきました。もう一人は彼女の手をポケットに入れて優しく、「冷たいね」と言って歩いて行きました。女優さんにどちらが良かったですかと聞くと、後者との答え。理由は、「前者は彼の歩幅で歩いたが、後者は私の歩幅で歩いてくれたから」でした。

 大川先生がフィンランドの歌姫レーナ・マリアさんをお迎えしたときに、コンサート後のサイン会を考えました。レーナさんは手が無いので口でサインをするだろうか。足でサインをするだろうか。口でサインをするとしたら、どんなペンの長さ・太さが良いだろうか。熟慮の末に、大川先生ご自身でペンを口にくわえてサインを試したそうです。そしてこのペンの長さと太さが一番、口でサインするにはちょうど良いと知り、それと同じペンを何本かサイン会のために準備したそうです。

 おもてなしの極意は、相手の立場になって考えて、相手の必要を充たすこと。また優しさとは相手の歩幅に合わせて、相手に寄り添って歩くこと。教会に来られる方も歩幅はいろいろ。早いペースの方もいれば、遅いペースの方もいます。後者を選んだ女優さんはきっと、自分の歩幅に合わせて歩いてくれた俳優さんに安心を感じたのではないでしょうか。考えてみると、イエス様はいつも私の歩幅に合わせて歩いてくださいました。私たちはいつもイエス様からおもてなしを学んでいるのですね。

    “愛は寛容であり、愛は情け深い。”(Ⅰコリント13章4節)
                                      栄光在主
# by carbondalle1996 | 2013-10-14 08:25 | 日記 | Comments(0)